卯辰山

卯辰山公園のマツ林
(2002年11月16日撮影)


●概要

卯辰山のふもとの宝泉寺から浅野川、金沢市街を望む
(2002年11月16日撮影)

 標高141m。金沢市内を流れる浅野川の右岸にあるなだらかな丘陵地。桜並木や山野草園、花菖蒲園などがあり、卯辰山自然公園として四季を通じて市民に親しまれている(文献1)

 山上で発見された古鏡に卯辰の文様があったことや金沢城からの卯辰の方角にあたることからその名がついたという
(文献2)。また、金沢城と向かい合うことから、別名「向山(むかいやま)」とも呼ばれる(文献11)

●アクセス

 ・北鉄バス卯辰山線が公園内を通っている。

 ・北鉄バス天神橋、橋場町または東山などで下車。
  そこから徒歩で登る。

●「安政五年七月十一日」(安政の「泣き一揆」)
 

七稲地蔵があるお堂
(2002年11月16日撮影)

 13代藩主前田斉泰(なりやす)の頃の安政5年(1858年)7月11・12日の両夜、米価高騰に苦しむ金沢の下層民2000人ほどが卯辰山に登り、金沢城に向って「ひだるい(ひもじい)」、「喰われん」などと叫んだ(文献11、18)

 人持組に属していた藩士、成瀬正居(まさすえ)の日記には、「七月十一日曇 (中略) 一、今夜五時比(頃)より九半時比迄、向山へ大勢上り、ひもしい・喰われんとわめく 七月十二日 一、今朝承候処、山へハ千斗も上りし由、(中略) 一、今夜も矢張向山へ上りわめく、五時前位より四時過位迄ニ而止、人も余程少き様子也」などと当時の様子が具体的に記されている(文献108)
 
「泣き一揆」で捕らえられて亡くなった7名の墓所
(2002年11月16日撮影)

 「公私日記」や「諸説拾遺」などによれば、藩主斉泰はこれに大きな衝撃を受けたらしく、12日に予定されていた天徳院の参詣(盆中参詣を含む)などを取りやめ、心配のあまり17日頃まで気分がすぐれず、前藩主斉広の正室真龍院も翌日の昼過ぎまで食事もとれない有様であった(文献107)
 これらの反応からすると、卯辰山からの叫び声は直接、金沢城の藩主斉泰の耳まで届いていたのではないかと想像できる。 

 この結果、藩は米を放出し、米の高騰は収まったが、その後首謀者と目される八幡町能美屋与兵衛らが捕らえられ、翌年4月13日、5人が刎首の刑に処せられた。この5人に、処刑前に牢死したと思われる2人を加えた7人の冥福を祈るため、7体の地蔵が作られた。
 現在、卯辰山のふもとの寿教寺の門前にある、この「七稲地蔵(なないねじぞう)」は、幕末に卯辰山登り口から頂の庚申塚にかけて建立され、明治期の初め、寿経寺に集められたもので、この地蔵を建立した綿津屋政右衛門は、蛤御門の変(禁門の変)で長州側に味方して処分された尊皇攘夷運動家のパトロン的存在であったという
(文献111)

 この一件は、児童文学者かつおきんや(勝尾金弥)氏によって「安政五年七月十一日」(文献136)という題名で児童向け読み物として描かれている。

金沢城の「むかいやま」、卯辰山の遠景
(浅野川大橋より、2003年8月6日撮影)

 上述の成瀬正居の日記には、「大聖寺屋五兵衛家の前ニ而こわそふと云、又そふしてハよふないと云論し候様子ニ而、暫立止り、(中略)、十間町へ上り、千代屋久平家の前へ行、直ニ取掛りばたばた音し候故(後略)」と当日の様子が記されており、打ちこわしについての相談が行われた様子や(小規模ではあるが)実際に打ちこわしが行われた様子が記され、この一件が計画性・組織性に乏しく、一部の突出した暴力もあったことがわかる。刑死した5人の判決理由(「加賀藩史料」)では、他の4人は卯辰山での絶叫のみを問題にしているのに対し、北市屋右衛門については打ちこわしについても言及されているという(※)

 

●現地紹介

金沢ヘルスセンターのアシカショー
(1973年、父撮影)

 卯辰山には、かって動物園や大浴場、旅館などを備えた金沢ヘルスセンター(1960年開設、1983年にサニーランドと改名)があった(文献11)
 私も幼稚園以前から何回も連れていってもらって親しんだ。特にアシカのショーが大好きだった。

 金沢ヘルスセンターは現在は閉鎖され、動物園は辰口町へ「いしかわ動物園」として移設された。
 また、奥卯辰山健民公園には遠足や行楽で何回も訪れた。 

ケヤキの黄葉(植物園にて)
(2002年11月16日撮影)

 山として意識して歩いて登ったのは、ごく最近である。2002年11月16日にAくんとともに東山界隈から徒歩で登って一巡した。

 小雨の中であったが、金沢の美しい町並みと見事な紅葉、広大な展望を満喫し、金沢の魅力を再発見できた。

 

 


イロハモミジの紅葉
(2002年11月16日撮影)

※:この「安政の泣き一揆」から150年にあたる2008年(平成20年)、北陸中日新聞(2008年8月20日付 文献137)は、「江戸時代に権力者に庶民の意思を示したことが偉い」とか「暴力でなく現代のデモに近い」、「非暴力 義民の知恵」などとこの一件を報じたが、実際には、上述のように計画性・組織性に乏しく、一部には暴力も伴ったものであったようである。

 さらに、2008年9月4日付の毎日新聞地方版は、「山から叫ぶ非暴力的手法で、支配されてきた者が苦しみを直接訴えた。民主主義の原点です」などと「安政の泣き一揆」を紹介した。
 刑死した能美屋与兵衛の三男、義助は後に渡辺義男を名乗り、犬養毅のつくった立憲国民党の壮士となったというが(文献136)、能美屋与兵衛らをはじめ当時の民衆に政治の主体者としての意識があったはずもなく、「安政の泣き一揆」が「民主主義の原点」とは言い難いのではないか。

 

 ■引用文献一覧