城山の桜(石川県教育センター付近)
(2008年4月8日撮影)
●概要
高尾城の遺構のうち、ジョウヤマ地区(城山、A遺構)について「高尾城跡分布調査報告書」(文献32)をもとに以下に述べる。
高尾の集落より高尾山(城山)を望む。
(2008年4月8日撮影)
この地区は「ジョウヤマ」(城山)と呼ばれ、高尾城跡として伝えられてきた。高尾城の中でも最初に城郭が築かれた山塊であり、城郭の中心部として機能していたと考えられている。
削られた直後の高尾山(城山)
(1972年、父撮影)
「太平記」に足利尾張守高経が敗走して多胡城に入るとあり、高尾城の最初の構築は14世紀初頭と推定されている。
この時代は小武士団の戦いが主で、大規模な城は必要なく臨時的な要害の時代であったので、平野部を見渡せて尾根伝いに逃げ道が開けた「ジョウヤマ」に築城されたと考えられている。
桜が植栽された城山の切土法面
(2008年4月8日撮影)
1970年(昭和45年)9月、北陸自動車道路建設のための土砂取場となり、標高162.4mを最高部として残されて北側一帯は大きく削り取られた。
11月、北陸史学会によってこの事実が確認され、石川県教育委員会に保存要望が提出され、石川県教育委員会が緊急発掘調査を実施したが、遺構などは確認されなかったと報告している。
城山山頂の平坦面(A4)
(2008年4月8日撮影)
以下、遺構の記号は「高尾城跡分布調査報告書」(文献32)に従う。
調査で注目されたのは、城山の山頂部および山麓部で、平安前後期の須恵器、越前古陶片、土師器、珠洲焼、青磁片、五輪塔、石造遺物などを出土したこと、また、奈良・平安期から室町期にかけての遺物が多数出土したこと、さらに古墳時代初頭の土器包含層、弥生後期後葉の甕形土器などが確認されたことである。
この地域が古くから居住地区として開発されたことが裏付けらる。
城山山頂からの眺望(金沢市街を望む)
(2008年4月8日撮影)
この地区は平野部に延びる一つの尾根の先端部に位置するため眺望は良く、加賀平野一帯を望めることから本城としての機能を備えていたと思われるが、周囲の環境や水源などを考え合わせると籠城には必ずしも適するとは言えない状況であり、見張り敵要素も兼ね備えていたとも考えられる。
●現地紹介
城山山頂の平坦面(A4)
(2008年4月8日撮影)
ジョウヤマ(城山)地区は、上述のように土取場として大きく削り取られたため、現在では山頂部の平坦面の一部(A4)などがわずかに残されている(削られる前については「1972年(昭和47年)の額付近の写真」参照)。
堀切(A5)
(2008年4月8日撮影)
山頂の平坦面から南東方向へ向う尾根には堀切がわずかに残る。
石川県教育センター駐車場(A3)の桜
(2008年4月8日撮影)
石川県教育センター前の一段低い駐車場となっているところは、かって高尾から城山への登山道のあった区域であることから坂虎口(さかこぐち)であったと考えられている(文献32)。
石川県教育センター駐車場(A3)の桜
(2008年4月8日撮影)
現在、この一帯には駐車場の周囲を中心に何本ものソメイヨシノが植栽されている。ここの桜は麓からもよく見え、花見に訪れる人も多い。
切土法面に植栽された桜
(2008年4月8日撮影)
1970年(昭和45年)の土取りで削り取られた跡の法面にも列状に植栽された桜も美しく咲いている。
ここは私たちが小学生の頃、「ハゲ山」と呼んでいた土が剥き出しになっていたところである。この法面でもこれほど美しい桜がみられるようになったのは近年のことである。
馬塚
(2008年4月8日撮影)
石川県教育センターへ登る道の途中、左手にある高尾町共同墓地には「南無妙法蓮華経」と刻まれた馬塚がある。
「わがふるさと高尾町」(高尾町史編集委員会編、高尾町町会、2008年、文献104)によると、この馬塚は、飛登場(ヒトバ)地内(筆者注:鶴来街道沿い。高尾南2丁目または光が丘辺りか?)にあったが、区画整理事業のために移転されたものであるという。
飛登場地内は寺院跡といわれており、近くの馬場(バンバ)は馬舎跡、館(タチ)は居館跡であったことから、馬塚は供養碑であったと思われる(文献104)。
こんな石にこんな言い伝えがあるとは、「わがふるさと高尾町」を読んで初めて知った。
城山山頂から宝達山を望む
(2008年4月8日撮影)
城山の山頂からはこの日も宝達山が美しく見えていた。
城山山頂から石川県教育センター駐車場付近の桜を望む
(2008年4月8日撮影)