倉ヶ岳の大池(秋)
(2001年10月20日撮影)
倉ヶ岳の大池(早春)
(2002年3月16日撮影)
倉ヶ岳にもかって山城があったと伝えられている。加賀国古城跡之図(金沢市立図書館・加越能文庫、年代・作者不詳)には樹叢とともに「鞍嶽古城」の文字が記されている(文献67)。
また、1830年(文政13年、天保元年)の「加越能三州地理志稿」には「古跡」として「倉嶽城」があげられており、平安末期の在地領主、「林六郎光明居」と記されている(文献70)。
1183年(寿永2年)、木曽義仲に従って平氏と戦った林六郎光明が、倉ヶ岳に城を築き、平時には山麓の知気村(石川郡鶴来町)に住み、事あるときにはこの山城に拠って戦うことにしていたという(文献71)。
長亨2年(1488年)6月5日、一向宗によって、居城である高尾城を攻め立てられようとしていた加賀国守富樫政親が、いち早く危機を感じて奥の倉ヶ岳城へ逃げ込んだものの、一向宗徒によって追いつめられて逃げ場を失い、馬もろとも岩壁の上から池に飛びこんで死んだという(文献5)。
この言い伝えにはいくつか異なるものがあり(文献92)、富樫政親が一向一揆の武将水巻新介と組み討ちして馬もろとも池に沈んだと伝えられたり、「三州奇談」では、富樫政親の家臣水巻新介が敵の河崎入道等覚と組み討して、両馬もろとも池に沈んだことになっている。(文献113)。
富樫氏の墓所と伝えられている
県指定史跡「御廟谷」(金沢市額谷)
(1980年夏撮影)
富樫政親の命日(旧暦6月9日)が快晴だと、池底に鞍が見えるという伝説があり、「鞍ヶ岳」と書かれたこともある(文献2)。山名の由来には、ほかにも岩壁のことをクラと呼ぶところからきたという説(文献5)や、山容が鞍を置いたように見えるからという説もある(文献2)。
小学5〜6年生から中学生の頃、私たちはこれらの伝説を聞いて、倉ヶ岳の大池の底に富樫氏の財宝が隠されているに違いないと信じて、何とか財宝を探す方法はないかと子供用プールをボートの代わりに池に浮かべて箱メガネで池の中を覗くなどの方法をいろいろと考えていたが、実際にできたことは、せいぜい大池で釣りをした程度だった。
ほかにも倉ヶ岳の大池の水は鶴来の金剱宮の砥の池に通じているという言い伝えもあり、昔から大池にまつわる伝説に惹かれた人々も多かったようだ。
藩政期には、この山はジュンサイの名所として金沢にも知られていて、春から夏にかけて、はるばる金沢城下からの登山客も多く、その中には伝説を探るために大池にもぐる若者も少なくなかった。いずれも途中で池霊の怒りに触れたかのように、顔色も青ざめて浮かびあがてきたという(文献71)。
なお、慶長3年(1598年、豊臣秀吉が死去した年)には倉ヶ岳で金鉱を試掘したとの記録もある。慶長3年(1598年)、舟岡山城主高畠石見守定吉が倉ヶ岳に金鉱を開き金を取ったが、金鉱は少なく慶長7年(1602年)頃廃鉱にしたという(文献87)。
(「NEXT」へつづく)。