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御廟谷(2)

御廟谷の五輪塔
(2004年3月15日撮影)

●富樫氏と富樫館、高尾城、御廟谷

 「高尾城跡分布調査報告書」(文献32)などを元に富樫氏について以下に述べる。

 富樫氏は祖先を藤原利仁と伝えられている。藤原利仁は905年(延喜15年)従四位下鎮守府将軍となり、東国・越前を担当し、越前に別荘を建てたという。嫡子太郎有家は越前斉藤氏を、三男三郎有頼は越中井口氏を興し、次郎叙用は、従五位上斎宮頭兼中務権少輔加賀守となり富樫郷の郷司職を手に入れ、屋形を京と富樫郷に置いたという。
 しかし、この頃は在京の官人であって下国することはほとんどなかったと考えられる。

 四代忠頼は987年(永延元年)に従五位加賀介となり下国した。この頃は役務の交替が三年であったが、忠頼は民衆からの崇敬が厚かったことから、993年(正暦4年)、加賀介の永任を勅許された。
 忠頼は京の地名を富樫郷に配したとも山科の地に屋形を構えたとも伝えられている(
「芋掘り藤五郎伝説についての一考察」参照)。
 当時の国府はまだ能美郡国府にあったことから、やはり居住したのは国府の地であったと考えられている。

富樫館跡の石碑(野々市町本町、北陸鉄道石川線、野々市工大前駅前)
(2004年3月26日撮影)

 七代家国に至り、1063年(康平6年)、能美郡国府(現小松市古府町)から守護所を布市(現石川郡野々市町)に移し、本格的な舘を構築し、自ら富樫介を名乗ったといわれ、この時、布市の名を野市と改めたと伝えられる。
 文治年間(1185年〜89年)、源義経が奥州落ちのとき白山の祠をすぎて弁慶をしてこの城を窺わさせたとする「義経記」や「平家物語」に登場する富樫城、富樫舘は野市舘を指している。

 南北朝期、足利尊氏に属した十七代富樫高家が1335年(建武2年)の「足利尊氏下文写」によって加賀国守護の地位を入手したことが窺えるという
(以上、文献23)

富樫館跡(野々市町住吉町)
(2004年3月26日撮影)

 室町時代、富樫氏は野々市の館を守護所にしたといわれており、中世の野々市は政治・経済・文化の中心として栄えたという。

「野々市富樫館址図」(野々市町住吉町、富樫館跡の現地の立て看板より)
(2004年3月26日撮影)

 江戸時代の絵図、「野々市富樫館址図」(1858年、安政5年)をみると土塁が四角く取り囲む様子が描かれており、100m四方の広大な屋敷であったことが推定される。

発掘された堀跡(野々市町住吉町、富樫館跡の現地の立て看板より)
(2004年3月26日撮影)
  

 近年の発掘調査で堀跡が発見された。
 堀は幅約6m、深さ3mのV字型をしており、15世紀を中心とした土器や陶磁器、鏡などが見つかったという(
以上、富樫館跡の現地の立て看板より引用)

富樫氏の館の伝承から「殿屋敷公園」と命名された公園。1989年(平成元年)完成。
 富樫の総領・富樫介泰明の三男高家の弟、家明より家成・家永・満成が代々、この久安に住み、当時の人々はこの館を久安殿とか殿屋敷と呼んだという。
 長享の一向一揆の際には、洲崎和泉入道慶覚や河合藤左衛門尉宣久などがここを乗っ取って新しい砦を作り、天正の初め頃には河合虎春がここに砦をおいて柴田勝家の軍勢を拒んだという(文献77)。
(金沢市久安2丁目、2008年8月14日撮影)


発掘された堀跡(野々市町住吉町)
(2004年3月26日撮影)
 

 「太平記」に足利尾張守高経が敗走して多胡城に入ると初めて高尾城の名が現れる。富樫氏春の時代、南北朝期が始まり争乱が相次ぐ時期であり、加賀守護の地位を確保し、争乱の時代を乗り切るために山城構築が不可欠なものとなったと考えられている(文献32)

 広範囲に点在する高尾城の遺構は短期間に出来たものではなく、相当の期間を要したと考えられている。
 御廟谷一帯は、最初は寺域として開発され、戦乱の世になるにつれ、砦としての機能を付加していったものと推察されている
(文献32)

 (「NEXT」へつづく) 

 

 ■引用文献一覧

 

    


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