御廟谷の五輪塔
(2004年3月15日撮影)
●概要
御廟谷の五輪塔の概観
(2004年3月15日撮影)
御廟谷。1939年(昭和14年)指定の石川県指定史跡。金沢市額谷。
高尾山の南、額谷山の山腹標高160mから110m付近にかけ、東西120m、南北200mにわたり遺構が存在する。この地区は御廟谷と呼称され、加賀の守護富樫氏の墓域と伝えられる(文献32)。
「慶覚寺縁起」には高尾城跡辺にある御廟谷という所即ち(富樫)政親自害の地とあり、「亀の尾の記」に五輪の塔三つあり、富樫家累世の塚という(文献32)。「官地論」や「富樫記」などは政親では城中で自害、遺骸は野々市へ送葬と記されているという(文献23)。
額丹後、同八郎四郎の墓所と伝える看板
(2004年3月15日撮影)
また、金沢町人金屋彦四郎家伝によると、金屋の本姓は額氏にて、額丹後守の後身であるといい、1488年(長享2年)6月7日、高尾城が落ちた時、討死にした額丹後、同八郎四郎の遺骸をこの地に葬ったもので、石碑二基はその古墳であると記されているという(文献23)。
江戸期には前田藩の武士が財宝目当てに破壊したと伝えられ、現在、五輪塔など墓石が一ヶ所に集められ供養されているが、富樫氏一族の墓所としての確証はされていない。
ただ、この額谷地区は、富樫一族の額氏や家臣の金子氏の縄張り域であったことを考えれば、富樫氏ゆかりの地と考えられるという(文献23)。
この辺りから出土した土器や人骨は、いずれも鎌倉、室町期のものと判定されていると記した新聞記事もある(文献64)。
「寺屋敷」と伝えられる平坦部(写真奥)
(2004年3月15日撮影)
この一帯は個人の所有地で立ち入り禁止である。
一段高い所に位置する「寺屋敷」と伝えられる標高147mの一郭には、ほぼ四角形の平坦部があり、また、この地区には「ダイエンジ」、「ウインジ」など寺院と想定される地名も残っていることから、いくつかの寺院が建立されていたと考えられる(文献64)。
御廟谷の五輪塔
(2004年3月15日撮影)
なお、「額 郷土史」(文献32)によると、富樫氏の墓所と伝えられる地は、四十万にもあるという。
北四十万村の山の手の雑木茂り人も入らぬ箇所は石碑や石塔もなかったが、往古から墓跡といわれていた。
1848年(嘉永3年)3月、この地の雑木を伐り倒し、田地に開発したところ、七、八間の石垣があり、石が散乱していたので三尺ばかり土を掘り除いたところ、多数の石塔がでてきた。
奉行や肝煎ら検分の上、田地開発のためこれらの石塔をとり除いた。人夫たちは古代の墓なれば金銀財宝などあろうかと石碑の下を深く掘ったところ、ひとつの大きな石塔の下に大きい瓶が埋めてあり、中に遺骨があったという。人夫たちは、遺骨のあった墓のみ、上に雑石を積んで印としたが、これが富樫家代々の墓所で、元大仙寺の境内とみられるという(文献32)。筆者はこの地が四十万のどの辺りなのか確認できていない。
●アクセス
・鶴寿園行きの北鉄バスで、いしかわ社会センター前下車。
「いしかわ人は自然人」bU3、特集「散歩@ 里山を散歩する」
(橋本確文堂出版部、2003年)にコースガイドが掲載されている。
(「NEXT」へつづく)
※:本項をご覧下さった方からのご教示によると、「金屋彦四郎」の名は「加能郷土辞彙」(文献59)に記述があり、「金屋彦四郎家伝」という文書があるわけではなく、金沢市立玉川図書館の加越能文庫に「町人由緒帳」(目録番号16・62ー109)の「1」に「額彦四郎」の由緒帳、目録番号16・62ー131に「額氏系図」があるという。
「加能郷土辞彙」(文献59)の記述によれば、金沢町人、金屋彦四郎完仁は元和6年(1620年)、加賀藩の銀座を命じられ、寛永20年(1643年)まで勤務し、同年12月15日没。その祖は富樫氏の族、額丹後であるといい、額氏を名乗ったという。