1909年(明治42年)頃の額周辺の里山景観
T.調査目的
「地図で見る里山景観の変遷」の項で述べたように、1909年(明治42年)頃の額一帯の山地の植生は、高尾から額谷では針葉樹林、四十万では広葉樹林と明瞭に分かれていた。この原因を推察することを主な目的として、「地図で見る金沢の変遷」((財)日本地図センター、1997年)(文献33)の1:25000の地形図を元に、1909年(明治42年)頃の里山景観を対象範囲を広げて概観する。
注:図版は、(財)日本地図センターの承諾をいただいて、着色、掲載しているものであり、一切の転載を禁じます。。
U.対象範囲
現在の金沢市額地区(旧石川郡額村)および額地区に隣接する約6km四方の範囲。
V.調査方法
「地図で見る金沢の変遷」(文献33)の1:25000の地形図の地図記号を着色することによって、1909年(明治42年)頃の大まかな「相観植生図」を作成して里山の植生景観を概観する。
また、文献などによって植生景観の成り立ちに影響を及ぼしたと思われる要因についてまとめる。
W.植生景観の概要
「地図で見る金沢の変遷」((財)日本地図センター、1997年)(文献33)より転載。
注:図版は、全て(財)日本地図センターの承諾をいただいて、着色、掲載しているものであり、一切の転載を禁じます。
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立地別にみた植生景観の概要を以下に述べる。
<山地>
・野田山一帯と高尾から額谷にかけては、鍼葉樹林(針葉樹林)がまとまってみられる。針葉樹林は、山地から山裾・平野部に向って広がるような形で分布している。
・平栗、清瀬から四十万、曽谷にかけての山地の大部分は闊葉樹林(かつよう、広葉樹林)が広く占める。
・平栗の周辺や清瀬・坪野に到る谷筋など所々、地類区分の記号に囲まれた鍼葉樹林(針葉樹林)の記号が点在している。これらは植林であると思われる。
・清瀬周辺や窪・高尾から坪野へ到る道沿いでは山地にも水田がみられる(塗り潰されていない部分)。
・野田山の山頂付近には小面積の果園(果樹園)がみられる。
現在も果樹園となっている野田山山頂付近。
(2009年5月5日撮影)
<山裾>
・満願寺山の北側斜面および東側の谷筋、高尾の山裾に竹林がみられる。竹林は南四十万、平栗などにも点在している(「石川県のタケ類栽培の歴史」参照)。
・高尾の南に桑畑がみられる。
・満願寺山の南(斉地神社裏)や額谷から四十万にかけての山裾には荒地がみられる。
・満願寺山から額谷にかけての山裾は地図記号が表記されていない。
<平野>
・平野の大部分は水田などに利用されており、樹林は神社の社叢林などごく一部に限られる。
・桑畑は野々市村(現在の本町)周辺にも点在している。
X.考察
満願寺山から高尾にかけての遠景
竹林が広く占めるほか、落葉広葉樹林、スギ植林などがみられる
(高尾中央公園より、2008年3月4日撮影)
1909年(明治42年)頃の里山の植生景観を概観した結果、額一帯では、山地の植生は、高尾から額谷では針葉樹林、四十万では広葉樹林と明瞭に分かれて広がっていた。
この理由としては@地形・地質の違い、A土地利用の違い(伐採の程度の違い)、B植林などが考えられる。そこで文献を元に考察を試みる。
落葉広葉樹林、スギ植林、竹林が混在する大額山の現況
(金沢国際ホテル付近より、2008年3月4日撮影)
現代の額一帯の山地は竹林が広く占めているほか、針葉樹としてはアカマツ林のほかスギ植林がまとまった面積で分布しているが、人工造林が石川県下で積極的に進み始めたのは明治30年代からであり(文献54)、1909年(明治42年)頃にこの一帯を占めていた針葉樹林の大部分はアカマツ林であったと考えられる。
1.地形・地質
急斜面に成立している白山市鶴来、金劔宮社叢のウラジロガシ林
近年、激しい枯損によって、この壮観なウラジロガシ林は失われてしまった。
(2003年2月25日撮影)
同一の気候条件の元でも地形的条件によって異なる植生が成立することがある。「石川県の植生」(文献54)の「石川県原植生図」は残存する社叢林などから原植生を推察したものであるが、これによって額一帯の原植生をみると、平野部はタブ林(タブーイノデ群集)、山裾はスダシイ林(スダジイーヤブコウジ群集)、山地はウラジロガシ林(ウラジロガシーヒメアオキ群集)となっている。
タブ林は標高4〜50mの海岸に近い斜面および沖積地の土壌が深く、やや水分の富むところ、スダジイ林は標高5〜200mの比較的乾燥した斜面および尾根、ウラジロガシ林は谷沿いの急斜面を立地条件としている。
満願寺から四十万にかけての地形(1909年頃)
「地図で見る金沢の変遷」((財)日本地図センター、1997年)(文献33)より転載。
満願寺山から四十万にかけては、富樫山地といわれる連続した丘陵地・山地に含まれる地域である(文献93)。
等高線を見ると満願寺山の西北は急斜地となっているほか、高尾や額谷の山地の谷筋にも急斜地がみられる。しかし、平野に面した斜面は、ほぼ同じような傾斜で満願寺山から四十万まで連なっており、植生との対応はみられない。
したがって、ここでの針葉樹と広葉樹の分布が直接、地形に起因している可能性は小さいと考えられる。
地質と植生の対応については、花崗岩地帯の乾燥しやすい痩せた土壌条件の下ではアカマツ林が成立することが多い例などが知られている。
基盤岩の上に成立している雑木林は、一般的に尾根筋から斜面上部ではアカマツ林、斜面中部から斜面下部ではコナラなどを主とする落葉広葉樹が優占することが多い。これに対して、更新統の堆積物からなる丘陵の上に成立している林では必ずしも一般的ではなく、地形条件よりも堆積物の物理的性質の違いによる水分条件の方が植生への影響が大きいといわれている(文献15)。
「金沢南部・東部の地質概要図」(文献88)でこの一帯の地質をみると、平野部から順に卯辰山層と大桑層、高窪泥岩層、下荒屋凝灰岩層、朝ガ屋泥岩層、七曲凝灰岩層、砂子坂凝灰岩層が帯状に分布している。
額谷を流れる七瀬川
(額谷ふれあい公園付近より上流を望む)
(2004年3月15日撮影)
地質の分布は額谷を流れる七瀬川を境にして異なっており、七瀬川以北の満願寺山から額谷にかけての針葉樹林が分布している範囲は高窪泥岩層と朝ガ屋泥岩層、七瀬川より南の四十万の広葉樹林の範囲では七曲凝灰岩層や砂子坂凝灰岩層が広く占めている。
七瀬川以北に分布する泥岩は主に粘土とシルトという極めて粒の小さな泥からできた堆積岩、七瀬川以南に分布する凝灰岩は粒径2o未満の火山灰が堆積して固まったものであり(文献143)、いずれも風化が早い岩で、地すべり発生の要因となりやすい性質の地質である(文献94)。
額谷山(七瀬川以南)の露頭と額谷石切り場跡
(2004年3月15日撮影)
一般に、土壌は気候に支配され、広域的には同じ気候条件の元では、母岩を異にしても同じ型の土壌を生ずることが多い。しかし、土壌の生成が未熟な場合で母岩が特に特殊な場合には、その影響が強く現れて、周囲とは異なった植生が成立することがある(文献94)。
もし、過去において強度の伐採によって禿山化して表土が流亡したような場合には、母岩の性質や母岩の風化過程が植生の再生に違いを及ぼした可能性もあるが、この一帯に分布する泥岩と凝灰岩はいずれも細かい粒からなる風化の早い岩石なので、ここでの針葉樹と広葉樹の分布が直接、地質に起因するとは考えにくい。
2.土地利用
@山地からの杪や柴の産出
額周辺の山裾に近接する村々はいずれも農業を中心として成り立っており、額の生産物の項で述べたように、明治期には額およびその周辺の山地からは燃料として杪(こずえ・ほえ)や柴(しば)が採られていた(文献23、87)。
明治末期には廃藩によって七木の制も解かれて濫伐が進んでいた。当時、人工造林はほとんど行われず、伐採時期を考慮することなく大面積を皆伐して天然更新を待つということが行われていた(文献109)。
このように明治末期の額周辺の山林は常に伐採圧を受けていた。その伐採の程度が植生の違いにつながったと考えられる。すなわち、針葉樹林(アカマツ林)の分布は、「伐採の程度による雑木林の変化」の項や「アカマツ林とコナラ林」の項で述べたように、周辺よりも伐採が繰り返されて土壌の貧栄養化した結果であると考えられる。
表ー1に額周辺における杪と柴の産出量を示したが、これを見る限りでは杪と柴の産出量が特に植生の違いに結びついたとは考えにくい。
表-1 額とその周辺における杪・柴(しば)の産出量
(明治6年から明治9年、石川県調べ、文献23、87を元に作成)
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杪(ほえ) |
柴(しば) |
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四十万 |
3400 |
3000 |
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額 谷 |
350 |
900 |
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大 額 |
5600 |
2000 |
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三十苅 |
− |
200 |
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額乙丸 |
− |
1300 |
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額新保 |
− |
− |
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馬 替 |
− |
− |
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高 尾 |
2300 |
1500 |
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窪 |
− |
− |
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円光寺 |
− |
− |
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山 科 |
− |
− |
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伏見新 |
− |
− |
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清 瀬 |
− |
− |
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坪 野 |
− |
− |
その他、四十万1500枚、額新保23900枚、
額乙丸1500枚炭俵を産出していた。
A古くからの土地利用
高尾から額谷の範囲が周辺の山地よりも伐採が進んでいた理由としては、ひとつには、古くから山地に人の手が入っていたことがあげられる。
高尾の山中の竹林に点在する石積み
(2003年3月29日撮影)
高尾から額谷にかけての山地は、平安時代には寺院が築かれたと考えられており、室町時代には城郭が築かれるなど、古くから地形の改変も含めて人の手が加わってきた地域である。
高尾城の城跡とみられる遺構の範囲は中谷川(満願寺川)と七瀬川(額谷川)に挟まれた南北1500m、東西1500mに及んでいるが(文献32)、この範囲は1909年(明治42年)頃の針葉樹林の分布範囲とほぼ一致する。
高尾と額谷の間(大額団地付近)の山中の平坦面
人為による地形改変と思われる
(2005年4月5日撮影)
前山地区の項や額山地区の項で述べたように、この一帯には石垣や石積み、土塁、掘切、または人為によるとみられる平坦面などが点在している。
これらが全て高尾城の遺構であるとは考えにくいが、こうした石垣や石積み、平坦面などは、この一帯に何らかの形で人の手が加えられてきたことを示している。
高尾の城山の背後から坪野に到る道は、「三州志故墟考」(文献101)にも記述があるように藩政期にはすでにあったことが確認できる。針葉樹林の分布範囲は、この道に沿うように山地から山裾・平野部に向って広がる三角形となっている。このことはこの道沿いに伐採が進んできたこと、山奥よりも山裾の方が頻繁に伐採されてきたことを傍証と考えられる。
野田山墓地のアカマツ林の現況
(2009年5月5日撮影)
なお、ここでは詳述しないが、高尾から額谷にかけてと同様に鍼葉樹林(針葉樹林)がまとまって分布している野田山一帯も、古墳時代には長坂古墳群が形成され、中世には経塚・五輪塔などの供養塔が林立していたと考えられ、古くから山地の土地利用が進んでいた地域である。その後、近世には藩主以下家臣、さらには町人も含めた一大墓域となって現在に到っている(文献121)。
B加賀藩の直轄林
四十万の山地の遠景
現在も落葉広葉樹林が比較的まとまってみられる。
(2008年1月2日撮影)
伐採の頻度は、過去の林野の所有制度にも関わってきたと考えられる。
加賀藩が直轄する御林や御藪を書き上げた1716年(正徳六年)の文書からは四十万に一ヵ所、額谷に一ヵ所、加賀藩が直轄する御藪があったことがわかる(文献105)。
藩の直轄林は、軽租を課して下草や枯枝の採取をみとめたもの、無償で下草類の採取を許したもの、留山(封鎖林)として地域住民の立ち入りを許さなかったものなどがあり(文献98)、地域住民による樹木の伐採や下草刈りなどには規制が加えられていた。この御藪の存在も、四十万に比べて高尾の山地の方が藩政期から伐採が繰り返されていた理由のひとつにあげられるかも知れない。
一方で、1815年(文化12年)の覚書には「苗木こぎ渡山々、窪山・高尾山・大額山、右山々に而こかせ候」とあり、窪から大額山にかけての山々から並木植林用の松苗が抜き取られたこともあったという(文献99)。
そのほか、「額の生産物」や「額谷石切り場跡」の項で述べたように額谷では藩政期から石切りが行われていた。石切りに伴って地形の改変や樹木の伐採などの撹乱が続いていたであろう。
C市街地や集落近くに分布する針葉樹林
額谷のアカマツ林の現況
(額谷山、2002年3月4日撮影)
以上のように高尾から額谷にかけては古くからの山地に人の手が加わってきた結果、樹木の伐採や表土の流亡に伴って土地が貧栄養化し、針葉樹林(アカマツ林)が占めるようになった可能性が考えられる。
「地図で見る金沢の変遷」(文献33)の1909年(明治42年)頃の地形図によって現在の金沢市域周辺を概観すると、全体的に市街地や集落の近くでは針葉樹林がみられ、山奥に入るほど広葉樹林が広く占める傾向がある。卯辰山や春日山など金沢市街から近い山地や神谷内、柳橋、法光寺など街道に近接する山地に針葉樹林が広くみられる。
これらの針葉樹林も周辺よりも伐採が繰り返されることによって土壌の貧栄養化した結果であると考えられる。
3.植林
平栗付近の谷筋にみられる植林と思われる針葉樹林
(赤丸で示した範囲、上掲の地図より一部拡大)
上述のように人工造林が石川県下で積極的に進み始めたのは明治30年代からである(文献54)。
額村に隣接する富樫村では、村営で倉ヶ岳、清瀬、坪野の三ヶ所で明治37・38年戦役記念造林として二町七反六畝に8152本のスギ・ヒノキを植林した。また、部経営では坪野の五町歩にスギ・ヒノキ3万本、高尾の二町五反歩にスギ・ヒノキ1万5千本を植栽したという(文献87、一町=3000坪、約99.2アール)。
地形図でも、平栗の周辺や清瀬・坪野に到る谷筋など所々に植林と思われる針葉樹林の記号がみられるが、面積から判断すると1909年(明治42年)頃の段階では植林はごく一部に限られていたと考えられる。
Y.まとめ
1909年(明治42年)頃の地形図を元に額周辺の里山景観を概観した結果、古くからの山地の土地利用が植生に及ぼした可能性が考えられた。すなわち、高尾から額谷にかけては、古くから山地に人の手が加わってきたことによって周辺よりも伐採が繰り返されて土地が貧栄養化し、針葉樹林(アカマツ林)が占めるようになった可能性がある。