竹林
●日本のタケ類
日本で栽培されている主なタケ類としては、マダケ、ハチク、モウソウチクの3種があげられる。
日本で竹といえば古代からマダケ(苦竹、真竹、唐竹、真柄竹)の代名詞とされているが、マダケは中国渡来とも国内自生ともいわれている(文献51)。
マダケの稈鞘(タケノカワ)は無毛で柔軟性に富むなどの性質から食品包装として利用される。また稈は弾力性があり、曲げや圧力に対する抵抗性が強いことから、ほとんどの竹細工、工芸品などに利用されるが、通常は食用にしない(文献48)。
雪の重みに曲がって耐えているタケ
(金沢市額谷町、2003年1月16日撮影)
モウソウチク(孟宗竹、江南竹、ワセ竹)は中国渡来のもので、801年(延暦20年)、京都府長岡京市の海印寺、寂照院の開山・道雄上人が唐から孟宗竹を持ち帰ったなど、いくつかのルートが伝えられている(文献51)。
モウソウチクは筍(タケノコ)が柔らかく大形であるため食用に供される。稈は物理性が劣るため繊細な細工物の素材としては一級品ではなく、花器、ざる、かご類、すだれ、箸などのほか建築材料などとして用いられる(文献48)。
ハチク(淡竹、アワダケ)は中国産であり、750年(勝宝3年)頃には国内にあったことは確実だが、日本での起源は不明である。
正倉院にある呉竹笙、呉竹竿、彫刻尺八、天平宝物の筆などはハチク製品と鑑定されている(文献51)。
ハチクの筍(タケノコ)はモウソウチクより美味であるために食用とする。細く割れるため茶筅(ちゃせん)など茶道用具、花器に利用されるほか、枝が細かく分枝するため竹ぼうきとして利用される(文献48)。モウソウチクよりも耐寒性を有するために特に裏日本に多いという(文献48)。
石川県のタケ類についても自生と移入の両説があり、まだまだ不明な点も多いという(文献51)。
天平年間(729年〜748年)に、国守大伴家持の勅使が羽咋一宮に参詣した時に「都より思う越路の竹の津に一夜のうちに雪は降りつつ」という歌を残している。しかし、これがマダケかメダケ類なのかは判然としない(文献51)。
また、能登の国鳳至郡七浦村の人某が、1670年(寛文10年)に中国に渡航し、鬱蒼とした大竹林を見て故国の山地の荒廃を救おうと思い、その数株(マダケ?)を持ち帰って同村に植えたという。
現在でも石川県では門前町七浦がマダケの本場となっているという(文献51)。また、三代加賀藩主前田利常がマダケを京都から移入し、その数株が羽咋郡の気多大社境内に植栽されて見事に繁茂したとされる(文献51)。
ハチクは天明の頃(1781〜1788年)、藩外から移入されて能登国に植栽されたと伝えられている(文献51)。
モウソウチクは、1736年(元文元年)に二十一代島津藩主吉貫が琉球国から2株を鹿児島の島津家別邸に移植し、江南竹と呼ばれていたものが次第に繁茂したので将軍家に献上した。将軍家では江戸城内の吹上苑に移植したところ、ここでも見事に繁茂したので諸大名に分譲を募り、1766年(明和3年)に加賀藩などに分譲された(文献51)。
岡本右太夫の碑
(金沢市寺町、妙福寺、2003年8月6日撮影)
そこで加賀藩士岡本右太夫が江戸に赴きモウソウチク2株を持ち帰り、金沢桜木小路の自邸に移植したが、間もなく枯死し、1770年(明和7年)に再度江戸へ赴き持ち帰った。その後、右太夫の子内田孫三郎が熱心に育成に努め繁茂した。
安永(1772〜1780年)のころには、金沢付近の加賀郡(石川郡)の野村(現在の金沢市野町)や内川村(金沢市内川)など各村へ分譲された(文献51)。金沢周辺では古来よりマダケが多かったが、安永年間(1772〜1780年)に竹林のほとんどが自然枯(じねんご)のため枯死し、替わりにモウソウチクが植栽され、最初は家屋付近に植えたのが、次第に里山に移っていったという(文献51)。
竹は貴重品であると同時に、戦国時代に竹槍として使用されてきた関係上、危険性のあるものとして重要視され、1772年(享保7年)には加賀藩の「七木の制」の漆(ウルシ)に替わって唐竹(マダケ)が加えられるなど、幕末まで竹材管理は特に厳重であった(文献51)。
明治維新後には、県内の山林所有者と山主は、木材、竹材などを自由に販売、伐採できるようになったので、各地で一斉に濫伐を始めた。このため山林、竹藪などは一変して荒廃状態となり、河川の氾濫が起こる一方、濫伐された木材、竹材の価格は次第に下落していった(文献51)。
明治の中期から後半にかけて竹林や食筍の需要が年々増大してきた。1904年(明治37年)に石川郡富樫村地黄煎の千代栄太郎が、同村字窪(現在の金沢市窪)の山地を開墾し1町7段歩にモウソウチクを植栽した。これによりこの地方の農家の筍栽培に対する関心が高まってきた(文献51、「地図で見る1909年(明治42年)頃の額周辺の里山景観」参照)。
手入れの行き届いた竹林(モウソウチク)
(金沢市四十万町、2003年8月4撮影)
1913年(大正3年)の石川県竹林面積の調査によると、マダケが断然多く406町歩に達し、ついでハチクは116町歩、モウソウチクは約80町歩となっている。しかし石川郡に限ってみるとモウソウチクが約39町歩で竹林全体(約63町歩)の約62%を占めており(文献51)、金沢南部周辺ではモウソウチクの栽培が盛んであったことが分かる。
昭和の初め頃には、竹材販売の利潤よりも筍の販売が有利と認められるようになり、モウソウチクの栽培面積が増加した(文献51)。
戦後になって1962年(昭和37年)頃から、産地の大型化による経営の合理化を目標として農業構造改善事業が進められ、石川県では全国で初めての筍事業を金沢市(内川、富樫農協)、小松市(苗代農協)で行うことになった(文献51)。
●竹林の植生
手入れの行き届いた竹林
(金沢市額谷町、2002年11月16日撮影)
石川県ではヤブツバキクラス域の標高300m以下の丘陵地の集落周辺においてモウソウチクが栽培されている。モウソウチク林の植生をいくつかの型に識別する考え方もあるが、その植生は立地条件もあるが、手入れがどれだけ行き届いているかによるところが大きい。手入れの問題でいえばフジ、テイカカズラ、クズ、ツタウルシ、キヅタ、サルトリイバラなどのつる性植物がよく混生している。
また、シュロ、カクレミノ、ヤツデ、コブシなどが見られることがあるのは、近隣の人家から鳥が種子を運んでくるものであろう(文献26)。
マダケは古くから人家に植えられ利用されてきた。また堤防決壊防止、崖崩れ防止のため、河川に沿った斜面部や堤防、屋敷の周りに植えられてきた。しかし、一斉開花によって枯死することがあり、再生した竹も宅地造成などによって育たずに激減している(文献26)。
マダケは60年に一度、または120年に1度開花枯死するともいわれているが、その原因は不明である。マダケの開花枯死現象は1953年(昭和28年頃)から神奈川県で起こり、それ以降、各地で現れ、昭和41年度には開花枯死面積は全国で約4万haに達し、石川県でも70haが開花枯死したという(文献51)。
●竹林の拡大
コナラなどの落葉広葉樹林に侵入したモウソウチク
(金沢市額谷町、2003年8月10撮影)
モウソウチク林では筍生産のために密度管理のために毎年竹を伐られて、筍と竹材の両方で収入になった。しかし、竹材が売れなくなったり、中国産の安い筍の輸入などによって竹林の管理が十分にできなくなってきた。その結果、モウソウチクの地下茎が周辺の雑木林や時には植林にも侵入して、モウソウチク林に置き換わっていくという、いわゆる「竹林の拡大」が各地で問題となっている(文献15)。なお、「竹林の拡大」については「地図で見る里山景観の変遷」の項に金沢市南郊での一例を示した。
手入れが行き届かず荒廃したモウソウチク林
枯死した竹が多く残存している。
(金沢市額谷町、2003年8月10撮影)
また、手入れが行き届かず荒廃した竹林が広がると、林床植生が極端に少なくなり、枯れた竹が残存するなど水土保全機能の観点からみても問題となっており、新たな竹の利用法などの取り組みが望まれる。
「竹切ボランティアin金沢2008」
竹林伐採地に桜を植栽したところでの草刈作業
(金沢市平町、平町千本桜の里、2008年5月11日撮影)
金沢市東部の中山間地にある平町では、特定非営利活動法人(NPO法人)「森林環境保全・里山物語」(金沢竹切物語)のメンバーが平町を象徴するモウソウチクの景観を生かした古道整備に取り組んでいる(文献89)。また、四十万地区の有志でつくる「森と生きる会」は、伐採した竹を破砕、圧縮するなど燃料化の研究を進めている(文献90)。金沢でも竹林や竹材の活用に向けた様々な取り組みが行われている。